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セキララU&I

【I】平野 愛さん(上越市春日地区 在住)

 第7回は神奈川県からIターンし、現在は上越市春日地区在住、フラ&タヒチアンダンスのインストラクターをされている平野 愛さんです!







Iターン前


「でも、愛ちゃんも
 チャレンジしてみたら」

——今回は、元プロスノーボーダーで、現在はフラ&タヒチアンダンスのインストラクターをなさっているIターンの平野さん! よろしくお願い致します。
こんにちは、よろしくお願いします! ところで私、確かにIターンなんですけど……昔は住む場所が無くなっちゃって車で生活してた時期があったりして、いろいろややこしくて(笑)、いつ「Iターン」したんですかね? 自分でもよく分かってないんです。

——スノーボードで国内外を飛び回っていらっしゃったんですもんね。「生活の拠点がここになったときから」で良いんじゃないでしょうか。
はい。じゃあ、ARAI(旧ARAIマウンテン&スノーパーク/当時)の寮に入ったときからかなぁ。それだと23歳だから……もう、20年目になるんですね!

——とすると、これまでのこのインタビューのなかで「ターン後」の在住歴は最長ですね! スノーボードを始められたのはARAIにいらしてからですか?
ボードは19歳からです。高校のスキー教室からスノースポーツが大好きになりました。スキーは2〜3年でなんとなくは滑れるようになったんですよね。そのころにスノーボードというものを教えてもらって、やってみたら全ッ然、できなくて!(笑) それが19歳のときです。びっくりしました。小学校のころから色々スポーツをやってきてたのに「こんなに“できない”スポーツってあるんだ!」って。

▲平野さんが10代まで過ごした小田原の海

——19歳ということは、1993年。まだそれほどスノーボードが普及していなかったころですよね。
そうそう。まだ「スノーサーフィン」なんて言い方もあったころ。私、神奈川生まれの海っ子なので周りにサーファーの友人たちがいて、冬に「雪でサーフィンをすると楽しいよ」って連れて行ってもらいました。でも私だけあまりにもできないから(笑)、逆にだんだんハマっていっちゃったんです。当時は小田原にある洋服や雑貨のセレクトショップで働いてたんですけど、「もっと滑れるようになりたい」と思うようになって、21歳のときにお店を辞めて、まず長野の白馬に山ごもりしました。

——19歳で始めて21歳にはもう、スノーボードの世界へ踏み出してたんですね。ご家族や職場の方からの引き留めはありませんでしたか?
家族はありがたいことに応援してくれてました。ショップは……すごく可愛がってもらってましたし、自分でも海外買い付けに行くのを目標にしてTOEICの学校にも通ってました。店長からは「もちろん辞めてほしくはない」とは言われたんですけど、「でも友達目線で考えると、チャレンジしてみても良いんじゃないかと思う」って、すごくありがたいことに、背中を押してもらえたんですよね。その店長も、過去にサーフィンを頑張ってきてた方だったんです。「30代半ばになって今こうやって店を持つようになって、周りの同級生たちと人生を比べてみても、引け目の無い人生を送れてると思う。だから愛ちゃんも、チャレンジしてみたら」って。

——もし、そこで引き留められていたら……。
実は「そろそろ、海外買い付けに行ってもらうからね」なんて話が出ていたときだったんですよ。だからこそ思い切ってスノーボードをやりたいという話を打ち明けたんですけど、もしそこで強く引き留められて「(海外買い付けを)目標にしてたでしょ」って説得されてたら、「そうだよね、まだ何もできないスノーボードのために白馬に行ったって、どうしようもないよね」って考えて諦めてたと思うんですよね。でも、店長のその一言のおかげで踏み出せました。





Iターンのとき


超ド下手(笑)だったけど
大会に出たら…

——そして白馬へ。
はい。ゲレンデで住み込みのシーズンスタッフとして働きながらボードをしてました。まだまだ超ド下手(笑)だったんですけど、近くで開催されてた大会に出たんです。そういう大会ってよく、スポンサー協賛品とかの抽選会があるんですよ。成績は全然ダメだったんですけど、抽選会で私、ニュージーランド旅行が当たったんです!(笑) その旅行券で夏前にニュージーランドに渡って、3カ月間、ずっと滑ってました。日本の冬が終わってそのまま南半球の冬に移ったので、その年は1年で倍のシーズンを過ごせたんですね。だから、色々な意味で一番成長できた時期だったと思います。

▲ニュージーランドでの平野さんのライディング

▲当時の思い出写真の1枚

——人生を変えた運命のくじ引きだったんですね。
本当にそうなんです! だからもうそれ以降、何も当たってない(笑)。ニュージーでは周りは北半球から来たプロ級の人たち、時間を惜しんで「滑りに行くぞ!」っていうコアな人ばっかりだったので、そういう人たちに出会えたこともあって、そこですごく変わりました。それが無ければ、ここまでスノーボードをやることになっていなかったと思います。

——ニュージーランドから帰国されたあとは、また白馬へ戻られたんですか?
白馬はシーズンの終わりが早くて、私が働いてたところは3月くらいで仕事が終わりになっちゃうゲレンデだったんです。だから帰国してしばらくは宿無しの車生活になっちゃってたんですけど(笑)、当時、ARAIはもっと長い期間営業してるよというのを友達が教えてくれて、こっちに移って寮に住み込みで働き始めました。でも私は冬場はあちこちの大会に出たくてシフトを減らしてもらったりしてたので、条件的に寮に住み続けるのは難しくなっちゃって、ARAIでの仕事は続けてたんですけど、24歳くらいからは妙高市内(当時の新井市内)にボード仲間の女友達と3人でアパートを借りて住むようになったんですね。今でいうルームシェアみたいな。そこからはずっと……妙高市と上越市のあいだで何度か転居はしましたけど、結婚するまではアパートとか賃貸マンション暮らしでした。



これだけ条件が揃った土地は
日本中探しても上越だけ

——ではあくまで平野さんにとってはスノーボードが中心で、妙高で暮らすことを目的に移住してきたわけではない、と。
そうですね、自然と住んでいたっていう感じ。家族も友達もいないお金もない女がひとりで夢ひとつで暮らすのは、大変なこともいろいろありましたね〜。帰りたくなるような辛い時期も何度もあったし、仲間もほとんど帰ってしまって、寂しかったですね……。私が踏みとどまっていられたのは、とにかく「スノーボードがやりたい」っていう気持ちだけはずっとあったからだと思います。でも「諦めないぞ!!」みたいな強情な意地というよりは、「今の私にはこれしか無いんだ」って、フラットに前向きな感じでしたね。そして何よりも、妙高の地が1年を通して私に仕事と住む場所を与えてくれていたので、自然と住むことができていたんだと思います。

——ボードができる地域というだけなら他にもあったと思うんですけど、余所へ移ろうというのはお考えにならなかったんですか?
それは無かったです。上越地域は長野方面へも、日本海側から東北方面へも、あと北陸にもアクセスが良いじゃないですか。それから当時、岐阜のスキー場イベントにもけっこう出てたんです。ボード関係でどこへ行くにも、上越は拠点としてすごく良かった。それと、そのころ夏は海で身体を鍛えてたんですけど、海にも山にも30分で行けますよね。これだけ条件が揃った土地は日本中探してもここだけじゃないかと思います。それが一番の理由で、ここをベースにしたいというのはずっと思ってました。あと、上越市は県内第3の都市だけあって、スキー・スノーボード以外にもちゃんと産業と仕事があって、暮らしやすい街が成り立っているというのがあったので。ARAIの寮に入った最初の年なんかはまだ知り合いも全然いないし……寮の住人も季節雇用の県外出身者ばっかりだったから、夏になればみんな帰っちゃったりして、それはもう孤独でした。地元の方に紹介してもらったご飯屋さんのお母さんと仲良くなったりとか、だんだん輪が広がって行ったから良かったんですけど、街の無い、ゲレンデしか無い山の中だったら、孤独でどうにかなってたんじゃないかと思います。家族や親戚の全くいない土地に移るっていうのは、最初はそういうことなんですよね。

▲妙高山



Iターン後


骨折、カフェ、フラとの出会い
…これはスポーツだ!!

(▼写真提供:カズデザイン事務所
——フラ&タヒチアンダンスとの出会いは、どういう経緯なんですか?
31歳ごろにアメリカで手首を複雑骨折しちゃったんです。向こうで大手術をして帰って来て……夏にはサーフィンをしてたんですけど、ボルトを入れてたので海に入れなくて、スケートなんかもやってたんですけど、その年は何もできなくなっちゃって。そんなときに、ARAIの元社員だった方が経営するカフェで「店長をやらないか」って誘って頂いたんですね。そのカフェ【写真】は残念ながら、今はもう無くなっちゃったんですけど……

——いきなり店長ですか。
実はARAIで就いていた仕事がレストランのキッチンスタッフだったので、そこで料理の腕を鍛えてもらっていたんです。それと27歳でプロになってからは、ARAIではイベント企画や大会の運営なんかをやらせてもらうようになって、営業停止になる2006年まで、何かしらの形でずっと仕事はさせてもらってたんですよ。だからそのカフェの店長を、っていう話も「そういう経験を活かしてみたら、面白いんじゃないか」「冬はボードに行ってくれて構わないから」って声を掛けて頂いて……無謀すぎるんじゃないかとは思いつつ、「できない」って言うのは嫌いなので、やらせてもらいました。そこで音楽ライブとか、雑貨や絵を作ってる人たちの個展とか、店内イベントをいろいろやっていたうちのひとつで、フラと出会ったんです。

——スノーボードとフラっていうと、何だかずいぶん対称的というか……かけ離れたイメージですが。
よく言われます(笑)。私もそれまではフラっていうと、こう……のんびりしたイメージで、全然“スポーツ”という認識は無かったんです。でも、そのときお店でやってくださった方たちのフラは“古典フラ”っていう、かなりフィジカルなもので「これはもう、スポーツだ!」って驚いたんですよ。話を聞いたら腕の怪我があってもできると判ったので、すぐに習いに通い始めました。サーフィンはひと夏やらずにいたら怖くなっちゃったのと、続けているうちにフラがすごく楽しくなってきて、途中でタヒチアンダンスとの出会いもあって、ハマりましたね。タヒチアンはフラよりももっとアップテンポなダンスなんです。ボードとはやっぱり「全然違うもの」という印象が強いと思うんですけど……実はフラもタヒチアンも、ボードに重要な体幹と脚(股)を鍛えるのにすごく良いんですよ。スノーボーダーって、オフシーズンは何をしたら良いかわからないっていう女の子も多くて、今、長野・上越の教室に来てくれてる生徒さんたちは冬にボードをやってる女の子がけっこう多いんです。私は今は、このフラ&タヒチアンダンスを教える仕事が生活の中心ですね。

——これまでこのインタビューは6名の方にご登場いただいてるんですが、どなたにお話しを伺っていても、人の人生って本当に“縁”でできているんだなと思いますね。
本当にそう思います! ありきたりな言い方ですけど、見てくれてる人は見てくれてるんですよね。上越・妙高の人は本当にそういうのが強くて、すごく大事にしてもらってる気がします。カフェの仕事が無ければフラとの出会いは無かったし、カフェを任せてもらえたのも、ARAIで料理を教えてくれたシェフがいたからだし……。そのシェフは今、板倉区にある「プルミエ」というお店【写真】をやっていて、今もときどき手伝いに行ったりしてます。他にも、当時ARAIで働いてた人たちが赤倉キューピットバレイシャルマン火打とか、この周辺地域で活躍されてるので、今でもすごく良くしてもらってます。



ボードとフラ&タヒチアン以外で
唯一「最高!」って思える瞬間

▲現役時代の平野さんのジャンプ(photo: KATSUHIKO GOMI)

——そのころ、今こういう未来に辿り着いている自分を想像はしてましたか?
全然してなかったです! でも未来の準備はしてたのかな……。当時は「来年はこの大会目指す」とか「雑誌の表紙を飾る」とか、その時その時でスキルアップすることが目標の日々だったので……10年後、20年後は考えてなかったです。年々、ARAIやシャルマンでのパークプロデュース、カフェ運営やラジオMCなど新しい目標が続くようになっていって、その都度「どうしよう!」と戸惑っては、勉強して失敗して練習して、一歩一歩でした。で、また縁あって「これやってみない?」と声を掛けてもらったりして、次の目標が続いてきました。もしかして「私は新潟に居たい」って未来を想像してたのかも。県内はどんな依頼にも「Yes!」で、パウダーコースガイドから結婚式の司会までやりました(笑)。34歳ごろから新潟・長野だけの仕事として、フラ&タヒチアンに本腰を入れるようになったんです。36歳でボードのプロ活動からは引退して、でも長野のメーカーや新潟ローカルエリアでの雪上の仕事は少しですが、今も続けてます。こうしてスノーボードを続けていられることも、フラ&タヒチアン教室で独立できたことも、新潟でのご縁があったから! 人とのつながり、そして応援してくれた家族にも感謝が尽きないですね。

——平野さんにとって、上越に暮らしてみて良かったことはどんなことがありますか?
さっきも言いましたけど、海にも山にも30分で行けることですね〜。「ちょっと夕飯の買い物の前に3本滑ってくる」ってSNSにアップしたりすると、神奈川の友達からは「そういう環境なんだね……!」って驚きの反応が来たりするんです。20年も住んでるとそれがもう“日常”になっちゃってますけど、友達からのそういう反応を見ると、改めて「私の暮らしたい“日常”があるのは、上越なんだな」って思いますね。でも「山まで30分だけど除雪も30分だよ」って言うと「やだ〜!」って引かれたりしますけど(笑)。あとは……やっぱり、上越は四季がものすごく明確。冬はどっさり雪が降って、だから夏は涼しいかと思いきや、すんごい暑いじゃないですか(笑)。夏は海でフラ&タヒチアンのイベントをやったりしてます。秋はめちゃくちゃ食べ物が美味しいし。それでいて、決して“ザ・田舎”ではないんですよね。新幹線も開通したし、良い日常が揃ってます。

——webサイトを拝見すると今フラ&タヒチアンのお仕事でも全国あちこち飛び回っていらっしゃるご様子ですし、平野さんにとっては新幹線の開通は、かなり……
北陸新幹線サマサマですね〜! 教室を上越・長野・神奈川でやってるので。長野でレッスンをしてから神奈川に移動して、戻ってきて上越、みたいな、もともとスムーズな動線を描くようには組んでたんですけど、新幹線が通ってす〜〜ごく便利になりました。朝8時半くらいに家を出て、昼にはもう神奈川に着いちゃってる。

——ではその平野さんの「良い日常」のなかで、いちばんのお気に入りというと何ですか?
……乾杯?(笑) 私、趣味っていうのが全然無いんですよ。「好きなことを仕事にしてて良いね」ってよく言われるんですけど、それだけに打ち込んでストイックにやってきた部分もあるので、他に趣味と呼べるものが無くて……だから、ボードとフラ&タヒチアン以外で唯一「最高〜!」って思えるのが、乾杯の瞬間なんです。夫とだったり、友達とだったり、イベントが終わったあと教室のみんなとだったり、誰かと「乾杯!」ってする瞬間に「ああ、良かった!」って思える。良いこと悪いこと、どんなことがあっても今日ここで一緒に乾杯できる誰かがいる、独りじゃない、また頑張ろう!! って。やっぱり、こっちに来てから最初の1〜2年の強烈な孤独感が私の奥底にあって、その後のいろんな人に支えられてここまで来れたっていう感謝の気持ちもあるから、誰かと「乾杯!」って手を寄せ合える瞬間が好きなんだと思います。



Iターンのすゝめ


上越のイヤなところは…
いまだに慣れない「バカ」

——逆に、上越のイヤなところとか、移住によって苦労したということは何かありますか?
上越……上越に暮らし始めて、イヤだなと思ったのは……「バカ」ですね。

——バカ??
「バカ」って、言っちゃいけない言葉だって教わって育ってきたのに、「バカ美味い」とか「バカ良い」とか言われると、こう、何とも言えない感じ……「怒ってるのかな?」って思っちゃったり。上越は方言とか訛りはそんなに無いじゃないですか。突然こっちに来ても普通に会話できるし。でも「バカ○○」はみんなポンポン言うから、イヤでしたね〜。ここが地元の人には怒られちゃうかもしれませんけど、実は、いまだに慣れないです。

——なるほど〜(笑)。ただの強調の意味でしかない使い方がほとんどだと思いますけど、上越が地元の人にとっては、その違和感は言われなきゃ気付かないことかもしれません。次の質問ですが、平野さんのご経験から考えて、移住に必要なものって何ですか? これから移住を考えようという方に向けて、もし何かあれば。
自分を振り返って思い浮かぶのは……ひとつは「やり遂げる」っていう気持ちですかね。でも、あんまりストイックになって自分を縛るみたいな気持ちよりも、こう……何か嫌なことがあったときには「あ〜もう! ……よし、MORE ASIAのみんなと呑みに行こう」とか「あのお店の美味しい海鮮汁、食べて元気出そう」とか。実は今でも落ち込むことがあるとARAIの跡地に行くときがあるんですけど、ARAIの景色を眺めて、そこで出会った人たちのことを思い浮かべたりしてるうちに「よし!」ってなれるんです。そうやってつながっていった人たちと……たとえばスーパーとかでバッタリ会って「なんだね、おまん元気かね〜」なんて声を掛けてもらえると、「ああ、私は本当にここの住人になったんだ」って嬉しい気持ちになれるんですよ。そういう嬉しい瞬間とか、景色でも食べ物でも、好きな何か、大事なものを、ひとつひとつ見付けてこれたのが大きい気がします。辛いとか寂しいって気持ちで自分を閉ざすんじゃなくて、気持ちをオープンにしておくこと。これから移住する人にはそういう「好きなもの」を増やしていって、移住生活を楽しんでほしいなぁと思います。



もがいてる人を応援したくなる
昔の自分と重なって見えるから

——確かに、嫌なことばっかり積み重ねていったら、最後に残るのは「出ていく」っていう選択肢だけになっちゃいますもんね。MORE ASIAというのは、フラ&タヒチアンのグループか何かですか?
あ、いえ。MORE ASIAは雑貨の作家さんや染色家さんの作品を中心に、ASIAの“かわいい”を集めた小さなグループ展です。【写真】 もがいてる人を見ると自分の若い頃と重なって見えたりして……何か応援できないかな、と思って始めました。毎年、高田小町で海の日にゆる〜く開催してます(笑)。

——そんな活動もなさってるんですね。お話しを伺っていると、平野さんのなかにはすごく一貫した精神がありますよね。ボードやフラ&タヒチアンのジャンル以外のことにも一生懸命なところとか……「人とのつながり」を大事にする方だからこそなのかなと思います。自分のやりたいことだけを最優先で考えていたら、直接関係の無いことにまでそんなに熱心になれないだろうなと。
だって、突然、神奈川からボードを担いでやって来ただけの……全然ダメダメだった、何者かもわからないような私にもここの周りの方はすごく目を掛けてくださったんですよ。だから今があると思ってるし、そういう人たちに、これからもっと恩返しをしたいっていう気持ちばっかりです。それと同じように、私も若い人たちを、手伝えるところは手伝いたい。……なんか格好付けてるみたいで恥ずかしいですね、これ!(笑)

——いえ、素敵だと思います。では最後に、これから先の平野さんの想い描いていらっしゃること、目標やビジョンを教えてください。
そうですね。ちょっと漠然としてるんですけど、自分のなかで思ってることは、「生涯働いていたい」っていうことですね。80歳になっても90歳になっても、何かしらの仕事はしていたいです。スノーボードはいつか絶対、年齢的体力的な限界が来ると思うし、踊るのも難しくなるかもしれない。でももしそうなったらそうなったで、たとえば……この、フラ&タヒチアンに使う小物【写真】とか衣裳って、この辺りではそう買えるものじゃないので、100円ショップとかで葉っぱを買ってきたりして、自分で作ってるんです。いつか踊れなくなるときが来たら、少し道を変えてこういう衣裳作りでも良いと思うし、もしかしたらボードのワックス掛けのお婆ちゃんとかになってるかもしれないですけど(笑)。何かはまだ分からないですけど、生涯、働けたら良いなと思いますね……。やることがあるって幸せですよね。やることがあって、いろんな1日があって、夜、美味しいものを誰かと食べて「乾杯!」って言える時間が持てて、そういう暮らしがずっとできたら良いなと思います。

——楽しいお話をたくさん聞かせていただきました。今日はありがとうございました。
私の話がIターンに役立つのか心配なんですけど、お役に立てたら嬉しいです。ありがとうございました!


2016年3月31日 掲載(2016年3月9日 取材)【な】


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