HOME > 地域情報トップ > ぷらっとトラッド > “泡沫”が残した危機と赤倉の知恵
私たちが暮らすまち
先達が積み重ねてきた歴史、伝統、地域の絆
変わっていくもの、変わらないもの…
大切なものを受け継ぎながら
上越地域の未来をつくるひとびと
“そうだ、あのひとたちに会いに行こう”

“泡沫”が残した危機と赤倉の知恵
赤倉温泉を愛する変革者たち
赤倉温泉は開湯から200年。江戸時代の1816年、7人の発起人が高田藩の官営事業として湯治場を開いたのが始まりという。今でこそ、赤倉と言えばスキーやスノーボードなど冬のレジャーのイメージだが、道路除雪など無い当時はグリーンシーズンのみの営業であった。
かのレルヒ少佐が高田にスキーを伝えたのは1911年。以降、皇族方をはじめ、湯治客の間でスキーが楽しまれるようになる。1950年、国が認定した日本で最初のペアリフトが完成。スキーのメッカとして知られるようになった。当時の主な交通手段は電車。スキー客は田口駅(現 妙高高原駅)を降りて馬ソリで、または歩いて、赤倉に訪れていたという。
高度経済成長とともに交通インフラが発達。冬のレジャーがそれほど無かった昭和の時代、多くの人がこぞってスキーに訪れるようになった。映画『私をスキーに連れてって』が人気となったバブル期には、正月休みの来客数の全国1位がディズニーランド、2位が苗場、3位が赤倉という時期もあったそうだ。しかし、バブル崩壊とともにスキー人口は年々減少。1995年の阪神淡路大震災直後は客足がピッタリと止まってしまった。それ以降も様々なレジャーが台頭し、スキー人口は減少の一途を辿る。
危機感を抱いた赤倉の旅館経営者らは、「赤倉温泉活性化委員会」を発足し知恵を絞った。足湯の設置や各種イベント企画、赤倉発祥「温泉ソムリエ」資格制度の創設など、本来の「温泉の良さ」を発信し始めた。また、それぞれの旅館で顧客に喜ばれたサービスや成功事例を惜しみなく共有。……努力は実り、グリーンシーズンの顧客数はバブル期を上回るようになった。近年はインバウンドに目を付けた先駆者の働き掛けが実り、外国人客が増加。宿泊施設や飲食店など、赤倉温泉全体に良い循環が広がり始めている。
「これまでの赤倉温泉を守りつつ、若手や女性の意見も取り入れながら、地域の皆で協力できるようにしたい」と赤倉温泉組合長の広島茂男さん。その息子で赤倉温泉観光協会 副会長の直人さんは「赤倉の人たちの義理や人情、優しさ、伝統。守るべきものは守りつつ、変えるべきことは変えていく勇気を大切にしたい」と言う。また「温泉ソムリエ」を全国に広め12,000人の有資格者を輩出した温泉ソムリエ協会の家元・遠間和広さんは「温泉ソムリエの仕組みと共に赤倉温泉を広めつつ、温泉の文化や魅力を伝えていきたい」と意気込む。
「温泉地としては、何もしなくてもお客さんが来たバブル期など無かった方が良かったのかもしれない」という思いもあるという。だがバブル期は到来し、崩壊し、去っていった。その困難な時期を経て手にした知恵と勇気こそが、古き良き赤倉温泉を守り、これからを創っていくのだろう。私たちの心身を癒してくれる赤倉温泉、その土地と湯を愛しみ守る変革者たちに、心から感謝と応援の言葉を送りたい。
2017年4月28日(た)

中:広島 茂男さん(赤倉温泉組合長)
右:広島 直人さん(赤倉温泉観光協会 副会長)